ソフトウェアが指揮を執る | 序章 | カルチュラル・ソフトウェア史が存在しない理由
序章
カルチュラル・ソフトウェア史が存在しない理由
「すべての世界の説明は、現実の発展から大幅に遅れている。」MTV.ruのVJ、2008。
私たちは、ソフトウェアによって媒介された多くのコンテンツの生産、流通、受容が行われている文化であるソフトウェア文化のなかで生活している。 しかし、ほとんどのクリエイティブの専門家は、自分たちが日常的に使用しているソフトウェア−−Photoshop、Illustrator、GIMP、Final Cut、After Effects、Blender、Flame、Maya、MAX、Dreamweaver−−の思想史を全く知らない。
今日のカルチュラル・ソフトウェアはどこから来たのか。 そのメタファーや技術はどのように開発されたのか。 現在、著名なコンピュータ、Web企業の多くは広く報道されているため、こうした企業の歴史は比較的よく知られている(例えば、Facebook、Google、Apple)。 だがこれは氷山の一角にすぎない。 メディア制作・編集ソフトウェアの歴史は依然として不明なままである。 デジタル革命は、少なくとも印刷機の発明に匹敵する重大な出来事であると広く言われているにも関わらず、この革命の重要部分であるメディア・ソフトウェアがいかに発明されたのかについてまったく無知である。 このことを考えると、驚かざるをえない。 文化業界にいる人々は、グーテンベルク(印刷機)、ブルネレスキ(遠近法)、リュミエール兄弟、グリフィス、エイゼンシュテイン(映画)、ル・コルビュジエ(現代建築)、イサドラ・ダンカン(モダンダンス)、ソール・バス(モーション・グラフィックス)を知っている(もしこれらの名前のどれかを知らないとすれば、間違いなく他の文化的友人がいるはずだ)。 そして、今日においてもなお、おおよそ1960年代から1970年代のあいだに活動し、コンピュータを現在の文化的マシンへと徐々に作りあげたJ・C・R・リックライダー、アイヴァン・サザランド、テッド・ネルソン、ダグラス・エンゲルバート、アラン・ケイと彼らの協力者について聞いたことのある人々は比較的少数しかいない。
驚くべきことに、個別のカテゴリーとしてのカルチュラル・ソフトウェアの歴史はいまだに存在しない。 重要人物、ゼロックスPARCやMITメディア・ラボのような研究所について書かれた大きな伝記本は数多くある。 しかし、メディア・ツールの系譜をたどった総括的書物は一冊もない。 さらに、メディア史、メディア理論、ビジュアルカルチャー史と関連するカルチュラル・ソフトウェア史の詳細な研究もまったくない。
MOMAやテートのような現代美術施設、ファイドンやリッツォーリのような美術出版社などは、現代美術史を売り込んでいる。 ハリウッドも同様に自らの歴史−−スター、監督、撮影監督、古典映画−−に誇りをもっている。 では、文化機関やコンピュータ産業自体によるカルチュラル・コンピュータ史の軽視はどう理解すればよいのか。 例えば、シリコンバレーはなぜカルチュラル・ソフトウェアの博物館をもたないのか(カリフォルニア州マウンテンビューにあるコンピュータ歴史博物館には、ハードウェア、オペレーション・システム、プログラミング言語に焦点をあてた広範な常設展があるが、ソフトウェア史については何もない)。
この最大の理由は、経済に関係していると考えられる。 当初は誤解され嘲笑の対象となった現代美術は、ついに正統な投資分野になった。 じっさい2000年代中盤には、20世紀の芸術家の絵画は、もっとも有名な古典芸術家の作品よりも高値で売られていた。 同じくハリウッドも古い映画を新しいフォーマット(VHS、DVD、HD、ブルーレイ・ディスクなど)で再発売し、利益を受け取りつづけている。 IT産業はどうだろうか。 IT産業は、古いソフトウェアからまったく利益を引き出していない。 したがって、ソフトウェアの歴史をまったく喧伝しないのだ。 もちろん、Microsoft Word、Adobe Photoshop、Autodesk AutoCADなどの人気のあるカルチュラル・アプリケーションの今日のバージョンは、おおむね1980年代の時から初めてのバージョンが作られていて、企業は最初のバージョンで使われていた新技術のために記録した特許から利益を得つづけている。 しかし、1980年代からのテレビゲームとは対照的に、これらのソフトウェアの初期バージョンは、現在再発売可能な別商品としては扱われていない。 基本的には、私はソフトウェア産業がソフトウェアの古いバージョンやある時点のアプリケーションのためのまったく新しい市場を作ることはきわめて重要だと思っているが、今のところ存在しない。例えば、Aldus Pagemaker。 じっさい、消費文化が大人たちがティーンエイジや若者だった頃の文化的経験への懐古に組織的につけこんでいると考えると、ソフトウェアの初期バージョンが市場機会ととらえられていなかったことは本当に意外である。 もし私が、1980年代の中盤に日常的にMacWriteとMacPaintを使っていたら、または1990〜93年にPhotoshop 1.0や2.0を使っていたら、それらの経験は、当時見た映画やアートのように、私の「文化的系譜」のかなりの部分になると思われる。 私は、必ずしも商用製品にさらにもう一つのカテゴリーを作成することを提唱しているわけではない。 だがもし、初期ソフトウェアがシミュレーションで広く入手できたら、初期コンピュータ・ゲームが現在のモバイル・プラットフォーム用に再制作されて広く入手可能になりゲーム研究の分野を充実させたように、ソフトウェアへの文化的興味をそそるかもしれない。
これまでほとんどの理論家は、「ソーシャルメディア」、「ソーシャルネットワーク」、「ニューメディア」、「メディアアート」、「インターネット」、「インタラクティヴィティ」、「サイバーカルチャー」とはまったく異なるカルチュラル・ソフトウェアを自分の研究対象として考慮しなかった。そのため、メディア編集ソフトウェアの概念的歴史だけでなく、メディア制作におけるソフトウェアの役割の体系的研究も十分ではない。 例えば、1990年代に、よく用いられているアニメーションと合成ソフトウェアAfter Effectsの採用が、どのように映像の言語を再形成したのか。 同じく90年代に、建築系の学生や若手建築家がAlias、Mayaなどの3Dパッケージソフトを採用したことが、どのように建築の言語に影響を与えたのか。 1994年の最小限のHTMLから、5年後に視覚的に豊かになったFlashサイトへ、そして2010年代初頭のレスポンシブWebデザインに至るまでのWebデザイン・ツールとWebサイトの美学はどう共進化したのか。 こうした問いに関する言及や短い議論は、論文やカンファレンス・トークで目にするだろう。 しかし私の知る限り、こうした問題のどれをとっても本1冊分にのぼる研究はなかった。 建築、モーショングラフィックス、グラフィックデザインなどのデザイン分野に関する本では、しばしば、新しい可能性と機会を促進するソフトウェア・ツールの重要性を簡単に議論しているだろう。 しかしこれらの議論は、たいていそれほど進んでいない。
まとめると、現代のメディア・ソフトウェアの働きとデザインとメディア(グラフィックデザイン、Webウデザイン、製品デザイン、モーショングラフィックス、アニメーション、映画など)の新しいコミュニケーション言語の連関についての体系的調査はいまだ手をつけられていない。 本書1冊でその全てをおこなうことはできないが、そうした連関をどうほぐせるのかについて一般的なモデルを提供できればよいと思っている。 加えて、ソフトウェア利用が特定の文化領域(モーショングラフィックスや視覚デザインなど)をどのように再定義するのかについての詳細な分析も提供できればと思う。
メディアデザインのためのソフトウェア理論に焦点をあてることで、本書はゲームプラットフォームとデザイン(イアン・ボゴスト、ニック・モントフォート)、電子文学(ノア・ワードリプ=フルーイン、マシュー・キルシェンバウム)に関するソフトウェアをすでに研究している少数の理論家の仕事を補うことを目指している。
この点において、マーク・マリーノ、ニック・モントフォート、イアン・ボゴストらによって発展したコード・スタディーズとプラットフォーム・スタディーズという関連領域は非常に重要な役割を果たす。 マーク・マリーノによれば(私も全く同意するが)、ソフトウェア・スタディーズ、コード・スタディーズ、ゲーム・スタディーズの3つの領域は相互に補完しあうという。 「批判的コード・スタディーズは、ソフトウェア・スタディーズとプラットフォーム・スタディーズに関連する萌芽的領域である。 しかしそれは、(ソフトウェア・スタディーズが扱うような)プログラムのインターフェースやユーザビリティや、(ゲーム・スタディーズが扱うような)その根底にあるハードウェアよりも、プログラムのコード自体により密接に同調している。」
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