ソフトウェアが指揮を執る | 序章 | ソフトウェア・スタディーズとは
序章
ソフトウェア・スタディーズとは
本書は、「ソフトウェア・スタディーズ」という理論的枠組みの発展に貢献することを目的にしている。ソフトウェア・スタディーズとは何か。いくつかの定義がある。私が知る限り、「ソフトウェア・スタディーズ」と「ソフトウェア理論」が初めて登場したのは、前著 『ニューメディアの言語』 においてである。私は次のように書いた。 「ニューメディアは、メディア理論−−その発端は、1950年代のハロルド・イニスや60年代のマーシャル・マクルーハンの著作にまで遡ることができる−−の新たな段階を要求している。ニューメディアの論理を理解するには、コンピュータ・サイエンスに助けを求めなければならない。コンピュータ・サイエンスにこそ、プログラム可能となったメディアを特徴づけるような、新しい術語、カテゴリー、オペレーションが見つかるだろう。私たちは、メディア・スタディーズから、「ソフトウェア・スタディーズ」とでも呼びうる何かに移行している−−メディア理論からソフトウェア理論に移行している」。
今この声明を読むと、すこし調整したほうがよさそうだ。 ここではコンピューター科学を、文化がソフトウェア社会でどのように機能しているかを説明しうる完全な真実のようなものとして位置づけている。 しかし、コンピュータ科学は文化の一部分である。 それゆえソフトウェア・スタディーズは、現代文化のソフトウェアの役割と、ソフトウェア自体の発展をかたちづくる文化的で社会的な影響力を調査しなければならない。
第二のアプローチの必要性を、はじめて包括的に示した本は、 ノア・ワードリプ=フルーインとニック・モントフォートが編纂した 『ニューメディア・リーダー(The New Media Reader)』(MITプレス、2003)だ。 この画期的な論文集の出版は、文化史と関連したものとしてのソフトウェアの歴史的研究のフレームワークを強調している。 同書は、「ソフトウェア・スタディーズ」という用語を明示してはいないものの、ソフトウェアをどう考察するかについての新しいモデルを提案した。 カルチュラル・コンピューティングの先駆者、アーティスト、同時期に活動した作家たちの重要なテキストを体系的に並べたことで、『ニューメディア・リーダー』は、同じ数々の要約にあるものをデモンストレートしている。 つまり、しばしばカルチュラル・コンピューティングを発明した芸術家や科学者らによる同じ概念が同時につながっているということだ。 例えばこのアンソロジーは、ホルヘ・ボルヘスの物語(1941)とヴァネヴァー・ブッシュの論文(1945)で始まっているが、どちらもデータを整理し人間の経験をとらえる方策として巨大な分岐システムの考案をふくんでいるように。
2006年2月、すでに文化としてのソフトウェアについて先駆的な本( 『Behind the Blip: essays on the culture of software』(2003) )を刊行していたマシュー・フラーは、ロッテルダムのピエト・ズワルト研究所で初の「ソフトウェア・スタディーズ・ワークショップ」を開催した。 フラーはワークショップの紹介で次のように書いた。 「ソフトウェアは、ネットワーク化したコンピュテーションのデジタルメディアの理論化と研究においてしばしば見落とされている。ソフトウェアは、メディアデザインの根底となる基盤であり「本質」である。この意味において、現在の知的生産物はすべて、ソフトウェアがその媒体と文脈を与えている、「ソフトウェア・スタディ」である。しかしソフトウェアの固有の特質、重要性は、工学の対象を除いてほとんど研究されていない」。
私は、「現在の知的生産物はすべて「ソフトウェア・スタディ」である」というフラーの一文にまったく同意する。 知識人がそれに気づくまでには、まだしばらく時間がかかるだろう。 この変化をもたらすために、2008年、マシュー・フラー、ノア・ワードリプ=フルーインと私は、「ソフトウェア・スタディーズ」シリーズをMITプレスから刊行した。 このシリーズからすでに以下の書籍が刊行されている。 フラー編『Software Studies: A Lexicon』(2008)、 ワードリプ=フルーイン『Expressive Processing: Digital Fictions, Computer Games, and Software Studies』(2009)、 ウェンディ・ヒ・キョン・チュン『Programmed Visions: Software and Memory』(2011)、 ロブ・キッチンとマーティン・ドッジ『Code/Space: Software and Everyday Life』(2011)、 ジェフ・コックスとアレックス・マクリーン『Speaking Code: Coding as Aesthetic and Political Expression』(2012)。 フラーは2011年、英国の研究者たちと共同で、さらなる発表と議論の場を提供するためオープンアクセスのピアレビュー論文誌 『Computational Culture』 を立ち上げている。
このシリーズに加え、幸運なことにプラットフォーム・スタディーズ、デジタル人文学、サイバーカルチャー、インターネット・スタディーズ、ゲーム・スタディーズの観点からも多くの書籍が刊行されている。これらの書籍の多くに、ソフトウェアの役割をより深く理解するための重要な洞察と議論が盛り込まれている。これらすべてをリストアップするよりも、こうした観点のうち最初の二つの好例を少し紹介するだけにとどめておきたい(これを読む時には、さらに多くのものが刊行されているだろう)。プラットフォーム・スタディーズから、 ニック・モントフォートとイアン・ボゴスト『Racing the Beam: The Atari Video Computer System』(2009)、 ジミー・メイハー『The Future Was Here: The Commodore Amiga』(2012) 。デジタル人文学から、 マシュー・G・キルシェンバウム『Mechanisms: New Media and the Forensic Imagination』(2008)、 デヴィッド・ベリー『The Philosophy of Software: Code and Mediation in the Digital Age』(2011)、 ステフェン・ラムゼイ『Reading Machines: Toward an Algorithmic Criticism』(2011)、 キャサリン・ヘイルズ『How We Think: Digital Media and Contemporary Technogenesis』(2012)。 なお「フォーマット・スタディーズ」という新領域になるかもしれない最初の本として、 ジョナサン・スターン『MP3: The Meaning of a Format』(2012) も関連書籍として挙げておく。
ほかに、計算機科学を専攻すると同時に文化理論、哲学、デジタルアート、その他人文学の領域をベースにもしている人々によるソフトウェアシステムの役割と機能の理解に関連する一連の著作がある。フィービー・センガーズ、ウォーレン・サック、フォックス・ハレル、マイケル・マテアス、ポール・ドーリッシュ、フィル・アグレ。
また、現代ソフトウェアやインターネットのような情報技術の重要部分、ユーザーテストのようなソフトウェア工学の実務の発展における重要な研究所や研究集団の歴史研究からなる一連の著作がある。これらを時系列に挙げると、 ケイティ・ハフナーとマシュー・ライアン『インターネットの起源』(1998)、 マイケル・ヒルツィック『未来をつくった人々−−ゼロックス・パロアルト研究所とコンピュータエイジの黎明』(2000)、 マーティン・キャンベル-ケリー『From Airline Reservations to Sonic the Hedgehog: A History of the Software Industry』(2004)、 ネイサン・エンスメンジャー『The Computer Boys Take Over: Computers, Programmers, and the Politics of Technical Expertise』(2011)がある。
一方で、ゆくゆく遍在する現状に至るコンピューターとソフトウェアが導入され始めたまさにその時、1985年にハワード・ラインゴールドが著した 『思考のための道具』という、 私の好きな本が残っている。 同書は、コンピュータとソフトウェアがたんなる「テクノロジー」ではなく、人々が新たな方法で思考し想像できるようになる新しい媒体(メディウム)だとした重要な洞察をめぐって書かれている。 こうした理解は本書に登場する主人公たち全員が共有していた。 概念的な「思考のための道具」を発明した J・C・R・リックライダー、テッド・ネルソン、ダグラス・エンゲルバート、ボブ・テイラー、アラン・ケイ、ニコラス・ネグロポンテ。 (現在、人文学と社会科学の大学教員の多くは、依然としてこの簡素だが基本的な概念を把握しておく必要がある。彼らは、ソフトウェアを、自分の大学のコンピューティング学科の領域に存在するものだとかたく考えつづけている。−−人間の知的創造性が現在存在している媒体とは対照的な、効率的にするだけの何かとして。)
このソフトウェア・スタディーズの知的風景の素描は、ソフトウェアの文化的議論を開拓した芸術家の役割を考慮しなければ、はなはだ不完全なものになるだろう。 2000年頃を皮切りに、数々の芸術家と著述家は、展覧会、フェスティバル、本の出版、関連作のオンライン・リポジトリの組織を含むソフトウェア・アート実践の発展を開始した。 この発展の主要人物は、エイミー・アレクサンダー、インケ・アーンス、エイドリアン・ウォード、ジェフ・コックス、フロリアン・クラーマー、マシュー・フラー、オルガ・ゴリウノヴァ、アレックス・マクリーン、アレッサンドロ・ルードヴィーコ、ピット・シュルツ、アレクセイ・シュルギンだ。 2002年、クリスティアーヌ・ポールは、ホイットニー美術館で芸術的コードの展覧会 「CODeDOC」 を開催した。 2003年、デジタルアートの大きなフェスティバル、 アルス・エレクトロニカは、 テーマを「コード」にした。 そして2001年から、 トランスメディアーレ・フェスティバルは、 「アーティスティック・ソフトウェア」を一部門として加え、フェスティバルのシンポジウムにかなりのスペースを割り当てた。 ソフトウェア・アート・プロジェクトは、新しい文化的、社会的構成物としてのコードの探究を切り開いたり、商用ソフトウェアの慣行にたいする批判的論評を提示したりした。 例えば、エイドリアン・ウォードは皮肉のきいた Auto-Illustrator −−「実験的で、半自動の、生成的ソフトウェア・アート作品であり、お手元の業務用のグラフィック・デザイン・ユーティリティとともに完全に機能するベクター・グラフィック・デザイン・アプリケーション」−−を作った。
少数のソフトウェア・スタディーズが多くの書籍やアート作品を横断して存在することを認めながら、フラーはMITプレスのソフトウェア・スタディーズ・シリーズの序文で次のように書いている。
ソフトウェアは、明確にあるいはほとんど見えないかたちで、経済的、文化的、創造的、政治的に現代生活に深く編み込まれている。 ソフトウェアの使われ方やソフトウェアがサポートし形づくる活動に関する著作は数多いが、ソフトウェア自体についての考察は、その歴史の大部分にわたってまだほとんどが技術的なままである。 しかしながら、芸術家、科学者、技術者、ハッカー、デザイナー、人文学者や社会科学者は、直面している問題、構築する必要のある事柄のために、ソフトウェアの拡張した理解が不可欠であることをますます認識している。 そうした理解のために、彼らはコンピューティングとニューメディアの歴史のテキストの一部を訪ねたり、ソフトウェアの豊かで暗黙の文化の一部に参加したりすることができる。 また、新興の根本的に学際的なコンピュテーショナル・リテラシーの展開の一部に参加することもできる。 これらは、ソフトウェア・スタディーズに基盤を提供する。
もちろん、現代の先端のメディア理論家 −−フリードリヒ・A・キットラー、ペーター・ヴァイベル、キャサリン・ヘイルズ、ローレンス・レッシグ、マニュエル・カステル、アレックス・ギャロウェイら−− による諸々の先行著作も、遡ってソフトウェア・スタディーズに位置づけることができる。 したがって私は、この枠組みが何年ものあいだすでに存在していたが、数年前までははっきり名づけられていなかったのだと確信している。
フラーは、2006年のロッテルダムのワークショップの紹介で次のように指摘した。 「ソフトウェアは、アート・デザイン理論、人文学、カルチュラル・スタディーズ、科学技術論、萌芽的な計算機科学の対となるひも(訳注:二重らせん構造のDNAのたとえ)の研究対象と実践領域になるとおもわれる」。 新しい学問領域は、特有の研究対象か新しい研究法または両者の組み合わせで定義されるが、ソフトウェア・スタディーズについてはどうとらえるべきか。 フラーの声明には、「ソフトウェア」が、既存の学問領域の議題に追加されるべき新たな研究対象であり、アクター・ネットワーク理論、社会記号学、メディア考古学といった既存の研究法を使って研究されうるものであることが示唆されている。
この観点を裏付ける格好の理由がある。 私はソフトウェアを現代社会のあらゆる領域に浸透した層(レイヤー)として考えている。 したがって、制御、コミュニケーション、表象、シミュレーション、分析、判断、記憶、構想、著述、インタラクションの現代技術を理解したければ、その分析はこのソフトウェアの層を考慮しないかぎりは完遂できないのだ。 つまり、現代社会や文化−−建築、デザイン、芸術批評、社会学、政治学、美術史、メディア論、科学技術論などすべて−−に関するあらゆる専門分野は、研究対象が何であろうと、ソフトウェアの役割とその影響を論じる必要があることを意味している。
同時に、ソフトウェア・スタディーズの既存の研究は、ソフトウェア自体に着目する場合、新しい方法論が求められることをあらわしている。 すなわち、著述する対象についての実践が手助けになるということだ。 社会と文化におけるソフトウェアの役割をもっぱら体系的に書いた知識人は、教育を受けていたか、ソフトウェアを書いたり教えたりすることをふくむ文化的プロジェクトや実践に参加していたことは偶然ではない。 イアン・ボゴスト、ジェイ・ボルター、フローリアン・クレイマー、ウェンディ・チュン、マシュー・フラー、アレクサンダー・ギャロウェイ、キャサリン・ヘイルズ、マシュー・キルシェンバウム、ゲールト・ローフィンク、ペーター・ルーネンフェルト、エイドリアン・マッケンジー、ポール・D・ミラー、ウィリアム・J・ミッチェル、ニック・モンフォール、ジャネット・マリー、ケイティ・サレン、ブルース・スターリング、ノア・ワードリプ=フルーイン、エリック・ジマーマンなどだ。 対照的に、技術的な経験やかかわりのない学者−−マニュエル・カステル、ブルーノ・ラトゥール、ポール・ヴィリリオ、シーグフリード・ゼリンスキーなど−−は、現代のメディアとテクノロジーについて理論的に精緻な議論でひろく影響をあたえたものの、ソフトウェアについては議論しなかった。
2000年代には、メディア・アート、デザイン、建築、人文学の学生で研究や制作にプログラミングやスクリプティングを使う者の数は大幅に増加した−−すくなくとも私が『ニューメディアの言語』ではじめて「ソフトウェア・スタディーズ」に言及した1999年に比べると。 文化や学術の世界の外では、さらに多くの人々が今ではソフトウェアを書いている。 ActionScript、PHP、Perl、Python、Processingのような新しいプログラミングやスクリプティング言語によって、おおきく広がった。 2000年代中ごろ、すべての大手Web 2.0企業がAPIを公開したことも重要な要素だ。 (API・アプリケーションプログラミングインターフェースとは、外部のコンピュータ・プログラムがアクセスできるアプリケーションによって提供されるコードのことだ。例えば、GoogleマップAPIを使って自分のWebサイトに完全なGoogleマップを埋め込むことができる。) これらのプログラミング言語、スクリプティング言語、APIは、必ずしもプログラミングを簡単にはしなかった。 それよりも、これらの言語やAPIは、プログラミングをずっと強力にした。 例えば、若いデザイナーは、Javaで非常に長いプログラムを書くことに対し、Processingで数十行のコードだけを書いて素敵な作品を作ることができるため、彼・彼女はプログラミングにより取り組むだろう。 同じくわずか数行のJavaScriptで自分のサイトにGoogleマップが提供する機能をすべて統合できれば、JavaScriptを使った仕事を始める大きな動機付けになる。 現在多くの人々がソフトウェアを書いているもう一つの理由は、少数企業が独占するデスクトップ市場ではなく、急速に成長しているモバイル・アプリ市場にある。 2012年初頭の非公式な報告書によれば、100万人のプログラマーがiOSプラットフォーム(iPadとiPhone)のアプリを、さらに100万人がAndroidプラットフォームのアプリを開発していたという。
マーティン・ラモニカは、ほとんどあるいはまったくプログラミングの経験なしで( Ning のような)カスタム・ソフトウェアを作れる新技術についての2006年の論文で 「アプリのロングテール」の将来の可能性について述べた。 数年後、その通りのことが起こっている。 2012年9月時点で、AppleのApp Storeには70万のアプリが、Google Playには60万超のAndroidアプリがならんでいたのだ。
「ニューヨーク・タイムズ」は、「インターネットの言語学習の大流行」(2012年3月27日)と題する記事で次のように報じた。「プログラミングとWeb構築、さらにiPhoneアプリを教えている夜間教室とオンライン講座の市場はブームにある」。記事では、こうしたプログラミングやWebデザインの学習への興味の高まりの理由の一つを解説した Codecademy (インタラクティブな講習でプログラミングを教えるWebスクール)の創設者の一人ザック・シムズの言葉を載せている。 「人々は、自分たちが現在生活しているこの世界を理解したいという心からの欲求をもっている。 彼らはただWebを使いたいのではなく、Webがどのように動作しているのかを理解したいのだ」。
こうした印象的な発展にも関わらず、プログラムできる人々とそうでない人々のあいだの断絶は、 プロのプログラマーと短時間のプログラミング講座を1、2回受講しただけの人々との断絶と同じように 依然として残っている。 明らかに、メディア読み取り・編集のための今日のコンシューマー技術は、もっともやさしいプログラミング・スクリプティング言語と比べてもなお、ずっと簡単である。 しかし、この状態が変化しないとは限らない。 例えば、1850年代に写真スタジオを設営して写真を撮影するまでに必要だったことと、2000年代にデジタルカメラか携帯電話の一つのボタンを押すだけですむようになったことを考えてほしい。 明らかに、私たちはプログラミングにおいて、こうした簡素さからは遠く離れたところにいる。 しかし、プログラミングが将来同程度に簡単になれない論理的な理由はまったく見当たらない。
今のところ、スクリプトやプログラムができる人々の数は増え続けている。 私たちはソフトウェアの本当の「ロングテール」から遠いところにいるが、ソフトウェア開発は徐々に民主化が進んでいる。 したがって今こそ、ソフトウェアが我々の文化をどのようにかたちづくっているのか、ソフトウェアが文化によってどのようにかたちづけられているのかを理論的に考えはじめる段階である。 「ソフトウェア・スタディーズ」の時代が到来したのだ。
序章