序章

メディアの理解

私は、前著『ニューメディアの言語』(1999年脱稿、2001年刊行)で、電子化によってもたらされた新しい文化形態を論じた。 その頃までには、プロのメディア制作の全ての領域でソフトウェア・ベースのツールの採用がほとんど完了していて、商用ソフトウェアや家電製品がまだ手をつけていなかった数々の可能性を提供する「ニューメディア・アート」は雄大で輝かしいステージにいた。

あれから10年、ほとんどのメディアは「ニューメディア」になった。 1990年代の発展は、10年前には数万ドルかかっていたメディア作成・編集ソフトをフリーで使い、ブログを書き、写真やビデオを共有サイトにアップロードする何億人もの人々へとひろがった。

Googleがきりひらいた慣行のおかげで、今日の世界は、永遠にベータ版であり決して完成することのないWebアプリケーションとWebサービス上で動くものを使っている。これらのアプリケーションやサービスはリモートサーバーで動いているため、消費者が何もしなくても、いつでも更新されうる−−事実、Googleは一日数回、検索アルゴリズムを更新している。同様にFacebookもコードを毎日更新し、ときに壊れることもある(Facebookのオフィスに掲げられた標語には、「どんどん動いて、どんどん壊せ」とある)。変化し続ける世界へようこそ。いま世界は、変化の乏しい重工業機械ではなく、常に流動的なソフトウェアによって定義されているのだ。

なぜ人文学者、社会科学者、メディア研究者、文化批評者がソフトウェアを扱うべきなのか。クラフトやファインアートといった一部の文化領域をのぞいて、文化的生産物の作成、保存、配布、アクセスをおこなう20世紀以前に使われていた様々な物理的、機械的、電気的なテクノロジーをソフトウェアが置き換えたからだ。Word(またはオープンソースの代替ソフト)で文章を書くとき、人々はソフトウェアを使っている。BloggerやWordPressでブログ投稿を書くとき、人々はソフトウェアを使っている。ツイートし、Facebookでメッセージを投稿し、YouTubeの何十億ものビデオから検索し、Scribdでテキストを読むとき、人々はソフトウェアを使っている(具体的には、Webブラウザを通してアクセスされるサーバ上のソフトウェア、「Webアプリケーション」や「Webウェア」と呼ばれるカテゴリのソフトウェアを使っている)。

さらに、テレビゲームで遊び、ミュージアムでインタラクティブなインスタレーションを体験し、建物を設計し、長編映画用の特殊効果を作成し、Webサイトをデザインし、映画のレビューを読んだり映画本編を見るのに携帯電話を使い、そのほか何千もの文化的活動を持ち出すとき、現実的に言えば、人々は同じことをしている−−ソフトウェアを使っているのだ。ソフトウェアは私たちと世界、他者、記憶、想像とのインターフェースになった−−世界が話すユニバーサルな言語であり、世界を動かすユニバーサルなエンジンだ。20世紀初頭における電気と燃焼機関にあたるものが、21世紀においてはソフトウェアだ。

本書は、「メディア・ソフトウェア」−−Word、PowerPoint、Photoshop、Illustrator、After Effects、Final Cut、Firefox、Blogger、WordPress、Google Earth、Maya、3ds Maxといったプログラム群−−を取り扱う。これらのプログラムは、画像、映像、3D、テキスト、地図、インタラクティブな要素、さらにこれらの要素をさまざまに組み合わせたWebサイト、インタラクティブなアプリケーション、モーション・グラフィックス、仮想地球等の制作、発表、共有、リミックスができる。メディア・ソフトウェアは、FirefoxやChromeのようなWebブラウザ、電子メールやチャットのプログラム、ニュース・リーダー、メディア・コンテンツのアクセスを主目的とするその他のソフトウェア・アプリケーションも含む(制作、編集機能をそなえたものもある)。

こうしたメディア表現の作成、交流、共有のためのソフトウェア・ツールは、一般にアプリケーション・ソフトウェア(Webアプリケーションを含む)の一部だ。このことから、これらのツールはいずれも、現代のソフトウェア全般が共有する何らかの「特質」を受け継いでいるとおもわれる。このことは、空間の設計、映画のSFX制作、Webサイトのデザイン、インフォメーション・グラフィックスの作成のいずれにおいても、そのデザインプロセスが似たようなロジックにしたがっていることを意味するのではないか。ソフトウェアでつくられているモーション・グラフィックス、グラフィック・デザイン、Webサイト、プロダクト・デザイン、建築物、テレビゲームには、共通するなんらかの構造的特徴があるのではないか。より一般的に言えば、メディア制作ソフトウェアのインターフェースとツールは、現代的な美学と異なるメディア形式の視覚言語をどのように形づくっているのだろうか。

本書で調べられるこれらの問いの背後には、もう一つの理論的な問いが横たわっている。この問いは、本書の物語を動かし、話題を選ぶ動機になる。従来のメディア固有のツールがソフトウェアによってシミュレートされ拡張された後、「媒体(メディウム)」の概念に何が起きるのか。異なる媒体についてそれぞれ語ることが、いまだに意味をもつのだろうか。あるいは、いま私たちは(本書の主要な登場人物であるアラン・ケイの言葉を借りれば)単一のモノメディウムやメタメディウムのすばらしい新世界のなかにいることに気がついているのだろうか。

要するに、ソフトウェア以降の「メディア」とは何なのかということだ。

「メディア」はまだ存在するのか

本書は、メディア・ソフトウェアとその現実への影響、そしてメディアの概念そのものの理論的研究である。 この20年のあいだ、ソフトウェアは19世紀や20世紀に生まれた他のメディア・テクノロジーにとってかわった。 今日、ソフトウェアは遍在し当然の存在になった−−にもかかわらず驚くべきことに、その発展の背後にある歴史と理論的概念を知る者はまだほとんどいない。 西洋美術に遠近法の使用をひろめたルネサンスの芸術家(ブルネレスキアルベルティ)や、20世紀初頭の近代映画の言語を発明した人物(D・W・グリフィスエイゼンシュテインら)の名前は、おそらくほとんどの人が知っている−−しかし私たちは、日々使っているPhotoshopやWord、そのほかのメディア・ツールがどこから生まれたのかについてまったく知らない。 さらに重要なこととして、私たちはそもそもこうしたツールがなぜ誕生したのかについてほとんど何も知らないのだ。

メディア・ソフトウェアの思想史とは何か。1960年から1970年代後半にかけて、今日のメディア・アプリケーションに横たわる概念や実装技術のほとんどを作った重要な人物たち−−J・C・R・リックライダーアイヴァン・サザランドテッド・ネルソンダグラス・エンゲルバートアラン・ケイニコラス・ネグロポンテ−−と彼らが率いた研究集団の思想と動機は何だったのか。私が発見したように−−彼らのオリジナルのテキストについての私の分析を読む読者とその驚きをわかちあえることを願う−−、彼らはコンピューター技術者でありメディア理論家でもあった。その後の数十年のデジタルメディアの発展を背景に、彼らのメディア理論を議論し、彼らを調べていきたい。後述するように、これらの人々と彼らの協力者の理論的概念は、今日とてもよく機能し、私たちが制作し、読み、見て、リミックスし、共有するのに使う現代のソフトウェアのよりよい理解につながる。

それでは、ソフトウェア文化の「秘められた歴史」へようこそ。 −−なぜ秘められていたかというと、わざと隠されていたからではなく、最近まで文化的な電子化がもたらしたあらゆる急速な変容に興奮していて、わざわざその起源を調べていなかったからだ。 本書は、このような調査が非常に価値あるものであることを示していきたい。

本書のタイトルは、建築史家で批評家のジークフリード・ギーディオン『機械化の文化史:ものいわぬものの歴史』(1947)に敬意を払ったものだ。この著作でギーディオンは、衛生・廃棄物管理システム、ファッション、農業生産、そして飼育・食肉・冷蔵に独立章を割いた食品システムを含む数々の領域を横断しながら、工業社会の機械化の発展をたどっている。本書は、よりささやかな範囲で、1960年から2010年にかけての文化の「ソフトウェアライゼーション」(造語)の歴史のエピソードを、メディア・ソフトウェアに特段の注意を払いつつ描いていく−−その展開を導いた最初の概念から現在の遍在的状況にいたるまで。

本研究は、「ソフトウェア・スタディーズ」という広大な思想的枠組みに位置している。 この観点で本書が貢献するのは、最終的にはメディア・ソフトウェアへ連なる概念と、現代のメディア・デザインと視覚文化におけるこの種のソフトウェアが採用された影響の分析である。

メディア・ソフトウェアというカテゴリーは、アプリケーション・ソフトウェアというカテゴリーの一部であることに注意してほしい。このカテゴリーからみれば、それはソフトウェアというカテゴリーの一部である。ソフトウェアとは、アプリケーション・ソフトウェア、システム・ソフトウェア、コンピューター・プログラミング・ツールに限らず、ソーシャル・ネットワーク・サービスやソーシャル・メディア・テクノロジーをも包含したものだ。

この拡張された感覚でソフトウェアを理解すれば、つぎのように問うことができる。「ソフトウェア社会」で生きることはどういう意味なのか。そして「ソフトウェア文化」の一部であることはどういう意味なのか。これらは次節でとりあげる問いである。


序章