序章

ソフトウェア、すなわち現代社会のエンジン

1990年代の初め、世界で最も有名なブランドは、素材や商品を製造するか物理的実体を取り扱う業界内の会社だった。しかしながら現在、もっともよく知られたグローバル・ブランドのリストの先頭には、Google、Facebook、Microsoftのような名前が並んでいる。(じっさい2007年にGoogleはブランド認知における世界一の名前になった。)そして、すくなくとも米国では、もっとも広く読まれている新聞や雑誌−−「ニューヨーク・タイムズ」、「USAトゥデイ」、「ビジネス・ウィーク」など−−は、Facebook、Twitter、Apple、Google、そのほかのIT企業に関する日々のニュースを特集している。

ほかのメディアはどうか。本書の草稿を執筆していた2008年に、私はCNNのWebサイトのビジネスコーナーをチェックした。トップページには10の企業と指数の市場データが表示されていた。このリストは毎日変動するものの、たいてい同じITブランドが数社入っていた。2008年1月21日を例にとろう。この日のCNNのリストには、次の企業と指数が入っていた。Google、Apple、S&P 500 指数、ナスダック総合指数、ダウ平均株価、シスコシステムズ、ゼネラル・エレクトリック、ゼネラルモーターズ、フォード、インテル。

このリストは大変示唆的である。物理的な商品やエネルギーをあつかっている企業は、リストの後半にあらわれている。ゼネラル・エレクトリック、ゼネラルモーターズ、フォードだ。この3社のすぐ前後には、ハードウェアを生産しているIT企業を2社みることができる。インテルはコンピューター・チップを製造している一方で、シスコはネットワーク設備を製造している。トップの2社であるGoogleとAppleはどうか。前者は情報産業にいる(「Googleの使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすることです」)一方、後者はコンシューマー製品を生産している。電話、タブレット、ラップトップ、モニター、音楽プレイヤーなどだ。しかし実際には、この2社はどちらも何か別のものをつくっている。そして、この何か別のものが米国経済−−ひいては世界−−の仕組みに非常に重大らしいので、これらの企業がほぼ毎日経済ニュースに登場しているのだ。さらに、Google、Facebook、Twitter、Amazon、eBay、Yahooのように毎日ニュースに登場する大手インターネット企業も同じ業界に属している。

この「何か別のもの」こそ、ソフトウェアである。検索エンジン、レコメンデーション・システム、地図アプリケーション、ブログ・ツール、オークション・ツール、インスタント・メッセージ・クライアント、そしてもちろん新しいソフトウェアを開発できるプラットフォーム−−iOS、Android、Facebook、Windows、Linux−−は、世界の経済、文化、生活、また徐々に政治の中心に位置している。そしてこの「カルチュラル・ソフトウェア」−−何億もの人々によって直接使われること、文化の「アトム」を伝えることとという意味でのカルチュラル−−は、巨大なソフトウェア宇宙で見えている一部分にすぎない。

私とベンヤミン・ブラットンが提案した未刊行の『ソフトウェア社会』(2003)で、ソフトウェアの重要性とそのことが人文学や社会科学の研究において比較的軽視されていることを説明した。

ソフトウェアは、戦時中に標的に向かうミサイルを、飛行中に経路を修正しながら精確に制御する。ソフトウェアは、Amazon、Gap、Dell、数々の企業の倉庫や生産ラインで実行し、ほとんど即座に世界中の素材を組み立て発送する。ソフトウェアは、店舗やスーパーマーケットで商品棚を自動的に補充するだけでなく、どの商品を、どれくらいの数量、時刻、店内の場所で売り出すかを自動的に決定する。ソフトウェアは、もちろん、インターネットを組織しているものであり、電子メールを配送し、サーバからWebページを届け、ネットワークのトラフィックを切り替え、IPアドレスを割り当て、ブラウザ上のWebページをレンダリングする。学校や病院、軍事基地や科学研究室、空港や都市−−現代社会の全ての社会的、経済的、文化的システム−−でソフトウェアが動いている。ソフトウェアはそれを一つにつなぐ見えない接着剤だ。現代社会のさまざまなシステムが異なる言語を話し、異なる目標を持っているにも関わらず、それらはすべてソフトウェアの文法を共有している。「if then」や「while do」の制御文、演算子やデータ型(文字や浮動小数点)、リストのようなデータ構造、メニューやダイアログボックスなどを包括したインターフェース規約だ。

電気と燃焼機関が工業社会を実現したのなら、ソフトウェアは同じくグローバルな情報社会を実現する。「知的労働者」、「シンボル・アナリスト」、「クリエイティヴ産業」、「サービス産業」−−これら情報社会の経済の立役者たちはソフトウェアなしでは成り立たない。

科学者が使うデータヴィジュアライゼーション・ソフトウェア、財務アナリストが使う表計算ソフトウェア、多国籍広告代理店で働くデザイナーが使うWebデザイン・ソフトウェア、航空会社が使う予約ソフトウェアなど。ソフトウェアはグローバル化のプロセスを推し進めるものでもあり、企業に、管理ノード、設備生産、倉庫、世界中に産出する消費をいきわたらせた。 現代的存在のどの新しい次元であろうと、過去数十年の特定の社会理論が−−情報社会、知識社会、ネットワーク社会で−−着目した、これらの新しい次元はすべてソフトウェアが実現している。

逆説的なことに、すでに社会科学者、哲学者、文化批評家、メディアとニューメディアの理論家は、サイバー文化研究、インターネット研究、ゲーム研究、ニューメディア理論、デジタル文化、デジタル人文学といった数々の新たな学問領域を作り、IT革命の全ての側面をカバーしているように見えるものの、これらの主題の多くを駆動している土台のエンジン−−ソフトウェア−−については比較的注意を払われることがなかった。人々が携帯電話やコンピューター端末で何十個ものアプリと日常的にかかわり更新している、10年後の現在においてもなお、理論的カテゴリーとしてのソフトウェアは、ITやその文化的、社会的影響に関心をもっている多くの学者、芸術家、文化的プロフェッショナルにとって依然として不可視のままだ。

いくつか重要な例外がある。一つはオープンソース運動と関連する著作権と知的所有権をめぐる問題は多くの学問分野で広範囲に議論された。 また、Google、Facebook、Amazon、eBay、Oracle、その他Webの巨大企業に関する本の流通量も着実に増大している。 こうした本のなかには、企業によるソフトウェア開発や、そのソフトウェアの社会的、政治的、認知的、認識論的な効果に関する洞察に富む議論を提供するものもある(良い例として、ジョン・バッテル『ザ・サーチ−−グーグルが世界を変えた』を見よ)。

2003年に我々はソフトウェア社会に対して提案し、今日改善された状況にあるものの、いまだにそれを引用することに意味があると思われる(加筆したのは「ソーシャルメディア」と「クラウドソーシング」への参照のみだ)。

「オープンソース」、「ピア・プロダクテョン」、「サイバー」、「デジタル」、「インターネット」、「ネットワーク」、「ニューメディア」、「ソーシャルメディア」に関するデジタル文化の批判的議論を限定すれば、新しい表象的、コミュニケーション・メディアの背後にあるものを把握したり、そのリアリティや働きを理解することは永遠に不可能だろう。ソフトウェアそのものを議論しなければ、その原因よりも影響ばかりを追いかけ続けることになる。出力を生みだすプログラムや社会文化よりも、コンピューター・スクリーンにあらわれる出力結果ということだ。「情報社会」、「知識社会」、「ネットワーク社会」、「ソーシャルメディア」、「オンライン・コラボレーション」、「クラウドソーシング」−−現代的存在のどの新しい特色であろうと、特定の分析が着目した、これら全ての特色はソフトウェアによって実現している。ソフトウェアそのものに焦点をあてる時がきたのだ。

同様の考えが、ノア・ワードリプ=フルーインが著書『Expressive Processing』(2009)のなかで、デジタル文学に関する書物に関して語るときに表明されている。「それらのほとんどは、デジタルメディアの機械が外部からどう見えるのかについて注力している。つまり、それらのアウトプットである……。どのような観点であれ、デジタルメディアについての著述はほぼ全て、デジタルメディア作品が作られる実際のプロセス、デジタルメディアを可能にしている計算機械といった重大なことがらを見落としている」。 本書は、(ほとんどのユーザが見て直接使う唯一の部分であるから)今日こうした「機械」の重要な部分だと理解しているアプリケーション・ソフトウェアについて議論する。


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