序章

メディア・アプリケーション

さきに列挙されたはじめの4つのタイプの文化的活動をサポートするソフトウェアをより詳細にみていこう。

第一のカテゴリーは、メディア・コンテンツを制作、編集、整理するためのソフトウェアだ。 つまり、Microsoft Word、PowerPoint、Photoshop、Illustrator、InDesign、Final Cut、After Effects、Maya、Blender、Dreamwever、Apertureなどだ。 このカテゴリーが本書の中核である。 産業界はこのカテゴリーを「メディア制作」、「メディア編集」、「メディア開発」など様々な用語でよんでいるが、私はこのカテゴリーを一つの総括した用語で指し示す。 それは単にメディア・ソフトウェアとする。

第二のカテゴリーは、メディア・コンテンツをWeb上に配布、アクセス、混合(すなわち「公開」、「共有」、「リミックス」)するためのソフトウェアだ。 つまり、Firefox、Chrome、Blogger、WordPress、Thumblr、Pinterest、Gmail、Google Maps、YouTube、VimeoなどのWebアプリケーションやサービスだ。 第一のカテゴリーと第二のカテゴリーは、明らかに重なり合っている。 例えば、多くのメディア・アプリケーションは有名なメディア共有サイトに制作物を直接アップロードできる一方で、多くのWebアプリケーションとサービスはいくらかの制作や編集機能をもっている(例えばYouTubeにはビデオ編集機能が組み込まれている)。 そして新しいコンテンツの制作のためと同様に、発表のために使われているブログのプラットフォームや電子メール・クライアントは、中間に位置している。

私たちはみなアプリケーション・プログラム、すなわち「アプリ」を使うので、この用語の基本的理解はもっているだろう。 同様に、それを定義するには二通りあることは確実だが、デジタル文化における「コンテンツ」が何を指しているのかも理解できていると思う。 私たちは、メディア・ソフトウェアやソーシャルメディアやサイトが提供するツールによって制作され、共有され、アクセスされたメディアのさまざまなタイプを挙げることができる。 文章、画像、デジタル映像、アニメーション、3次元オブジェクトやシーン、地図、それにこれらやほかのメディアの多様な組み合わせだ。 あるいは、ジャンルを挙げることで「コンテンツ」を定義することができる。 例えば、Webページ、ツイート、Facebook更新、カジュアル・ゲーム、マルチプレイヤー・オンライン・ゲーム、ユーザ生成映像、検索エンジンの検索結果、URL、地図の場所、共有ブックマークなどだ。

デジタル文化はコンテンツのモジュール化を進める。 すなわちユーザは、コンテンツの要素の制作、配布、再利用が可能になる。 ループ・アニメーションは映像の背景に使われ、3次元物体はより複雑な3次元アニメーション制作に使われ、コードの断片はWebサイトやブログに使われる (このモジュール性は、関数や手続きと呼ばれる再利用可能な小さな部分からコンピュータ・プログラムを設計する現代的ソフトウェア工学の基本的な原則と関連している)。 こうした部分もすべて「コンテンツ」とみなされる。

1970年代後半から2000年代中盤にかけて、メディア編集のためのアプリケーション・プログラムは、ユーザーのコンピュータ(ミニコン、PC、科学用ワークステーション、そして後年はラップトップ)上で実行されるように設計されていた。 その後の5年間で、徐々に企業は「クラウド」で実行可能なこれらのプログラムのバージョンを作った。 これらのプログラムのなかには企業のWebサイトを通じて提供されているものもある(Google DocsMicrosoft Web Office)。一方、メディア・ホスティングやソーシャルメディア・サービスと統合したものもある(Photobucketの画像、映像エディタなど)。 多くのアプリケーションは、携帯電話、タブレット、TVプラットフォームで実行され、サーバーやWebサイトと通信するクライアントとして実装されている(iPhoneの地図など)。 そうしたプラットフォームとして、AppleのiOS、GoogleのAndroid、LGのスマートTVアプリプラットフォームがある。 ほかにも、iPad用のAdobe Photoshop Touchのようなタブレットで動作するアプリもある(執筆時点において、Webベースのアプリケーションとモバイル・アプリケーションはいずれもデスクトップのアプリケーションに比べて編集機能が限られているが、本書が読まれる頃にはすでに状況が変化しているかもしれない)。

モバイル・ソフトウェア・プラットフォームの発展は、「メディア・アップローダー」(メディア・コンテンツをメディア共有サイトにアップロードするために設計されたアプリ)のような特定のメディア・アプリケーションのタイプ(とそれに対応する文化的活動)の重要性を高めている。 言い換えれば、メディア・コンテンツの管理(Picasaで写真を整理することなど)や「メタ管理」(ブログロールの整理のように管理システムの管理)は、このコンテンツを作りだす個人の文化的生活の中心となったのだ。

本書はメディア・ソフトウェアを扱う。 その概念的歴史、メディア・デザインの実際によって再定義される方法、創造されるメディアの美学、制作者やユーザーの「メディア」の理解。 メディア・ソフトウェアを他のカテゴリーの中にどのように位置づけうるのか、そして小さなカテゴリーに入り込めるのか。 これから繰り返す我々の定義から再出発しよう。 メディア・ソフトウェアは、制作とメディア・オブジェクトや環境と関わりあうために使われるプログラムだ。 それは、広大な「アプリケーション・ソフトウェア」のカテゴリーの一部分だ。 この用語自体、デスクトップ・アプリケーション(コンピュータ上で実行するアプリケーション)がモバイル・アプリ(モバイル端末で実行するアプリケーション)やWebアプリ(Webクライアントとサーバ上のソフトウェアからなるアプリケーション)に置き換えられている意味変化の途上にある。 メディア・ソフトウェアは、画像、動画、3次元形状、キャラクター、空間、テキスト、地図、インタラクティヴな要素といった、ことなるタイプのメディアの制作、公開、アクセス、共有、リミックスを可能にする。 さらに、これらの要素を使ったさまざまなプロジェクトやサービスも。 これらのプロジェクトは、非インタラクティヴ(平面デザイン、モーション・グラフィックス、映画のショット)にも、インタラクティヴ(メディア・サーフェイスやインタラクティヴ・インスタレーション)にもなりうる。 オンライン・サービスは、その特質ゆえに常にインタラクティヴである(Webサイト、ブログ、ソーシャル・ネットワーク、ソーシャル・メディア・サービス、ゲーム、Wiki、Webメディア、Google PlayやApple iTunesのようなアプリ・ストア、ショッピング・サイトなど)。 ユーザはつねにコンテンツを追加したり変更できるとは限らないが、いつもインタラクティヴ・インターフェースを使って、既存のコンテンツを航行(ナヴィゲート)しインタラクトしている。

今日の数十億ドル規模のグローバル文化産業がメディア・アプリケーションによって実現したことを考えると、これらを分類できる方法がひとつも存在しないことは興味深い。 Wikipediaの「アプリケーション・ソフトウェア」についての項目は、「メディア開発ソフトウェア」と「コンテンツ・アクセス・ソフトウェア」(Webブラウザ、メディア・プレイヤー、プレゼンテーション・アプリケーションにわかれている)を含んでいる。 これは一般的には使えるが、完全に厳密とはいえない。 なぜなら今日ほとんどの「コンテンツ・アクセス・ソフトウェア」は、すくなくとも何らかのメディア編集機能をもっているからだ。 例えば、Mozilla財団のSeaMonkeyブラウザはHTMLエディタをもっている。 QuickTimeプレイヤーは映像の一部をカット、ペーストするのに使える。 iPhotoは多くの写真編集コマンドをサポートしている。 反対に、WordやPowerPointといった「メディア開発」(「コンテンツ制作」)ソフトウェアはほとんどの場合、コンテンツの開発とアクセスの両方に使われている(この制作とアクセス機能の共存はソフトウェア文化のきわだった特徴だ)。 AdobeやAutodeskといった有名なソフトウェア・アプリケーション企業のWebサイトを訪問すると、こうした企業が市場(Web、放送、建築など)によって製品を分割していたり、「コンシューマー」と「プロ」といった下位カテゴリーを使っていることを発見できるだろう。 すばらしい分類だが、ここまでだ。 メディア・ソフトウェアを探究する理論的道具に着目するもう一つの理由だ。

「コンテンツ」(メディア構成物)を制作しアクセスするためのメディア・ソフトウェアに着目するが、カルチュラル・ソフトウェアはコミュニケーションや情報や知識の共有のために設計されたツールやサービスも含んでいる。 すなわち「ソーシャル・ソフトウェア」(私のリストでいえばカテゴリー3・4にあたる)である。 検索エンジン、Webブラウザ、ブログ・エディター、電子メール・アプリケーション、インスタント・メッセージング・アプリケーション、Wiki、ソーシャル・ブックマーク、ソーシャル・ネットワーク、仮想世界、予測市場などがあげられる。 Facebook、一連のGoogle製品(Googleウェブ検索、Gmail、Googleマップ、Google+など)、Skype、MediaWiki、Bloggerといったなじみ深い名前もある。 しかしながら、2000年代の終わりから、数々のソフトウェア・アプリとサービスが、電子メール、投稿、チャット機能をもちはじめた(しばしば「共有」メニューを通じて)。 その結果、全てのソフトウェアがソーシャル・ソフトウェアになった。

もちろん人々は、少なくとも今のところ全ての人と何もかもオンラインで共有はしていない。 したがって、発売されているどのコンピュータ端末にも搭載されているプロジェクト・マネージャ、データベース・アプリケーション、シンプル・テキスト・エディタ、ノート・アプリといった個人用の情報管理のためのソフトウェア・ツールも含めたほうがよい。

これらをふくめた全てのカテゴリーのソフトウェアはやがて変化する。 たとえば、2000年代のあいだ「個人情報」と「パブリックな情報」の境界は、人々が日常的にメディア共有サイトを使いはじめたり、ソーシャル・ネットワークで人と交流しはじめたことで、再構成された。

事実、ソーシャル・メディア、ソーシャル・ネットワーキング・サービス、Webサイトのホスティングの存在の背後には、できるかぎりこの境界を消し去る大きな理由がある。 これらのサービスは、ユーザーの社交や文化生活の大部分をサイト上に導くように彼らを後押しすることで、多数の人々にさらに広告を売り、彼らのユーザー・ベースの持続的成長を確保するのだ。 あなたの友人のほとんどが特定のサービスを使っていて、そこでさらなる情報、メディア、議論を提供しているとすれば、あなたは間違いなくそのサービスに参加するだろう。

これらのサービスの多くは、元々のメディア・ホスティングやコミュニケーション、ソーシャル・ネットワーキング機能に加えて、徐々に高度なメディア編集や情報管理ツールを提供しはじめた。 彼らは、(PC時代からの)アプリケーション・プログラム、オペレーション・システム、データ間という、別の一連の境界線をひろく消すことを成し遂げたのだ。 とりわけFacebookは、様々なスタンド・アローンのコミュニケーション・プログラムやサービスを置き換えられる完全な「ソーシャル・プラットフォーム」として自サービスを位置づけることにとても意欲的だった。

ソーシャル・メディアの台頭とモバイル・メディア・プラットフォームの急増以前は、メディア制作、配信、消費を別々のプロセスとして研究することができた。 同様に、我々は通常、制作ツール、配信テクノロジー、メディア・アクセス端末、プラットフォームを区別することができた。 例えば、TVスタジオ、カメラ、照明、編集機器(制作)、送信システム(配信)、テレビ(アクセス)というように。 一般的にソーシャル・メディアとクラウド・コンピューティングは多くの場合、この境界線を消去すると同時に新たなセットを導入する(クライアント/サーバー、オープン・アクセス/コマーシャル)。 ソフトウェア・スタディーズの課題は、現在のソーシャル・メディア/クラウド・コンピューティングの枠組みが「コンテンツ」や「ソフトウェア・アプリケーション」といった用語の意味を体系的に再構成していることをつねに念頭に置きながらも、これらの用語を使えるようにすることだ。

インタラクティヴ・メディアの制作はしばしば独自のコンピュータ・コードを書くことを必要とするため、プログラミング環境もカルチュラル・ソフトウェアの一種と考えられる。 その上、アイコン、フォルダ、サウンド、アニメーション、振動する表面、タッチ・スクリーンといったメディア・インターフェース自体もまた、人々のメディアや他者との関わりあいを媒介するものであるから、カルチュラル・ソフトウェアである。 ここで止めるつもりだが、このリストは、さらなるソフトウェアのカテゴリーをふくめることで容易に広げられる。

インターフェース・カテゴリーは、本書にとってとりわけ重要である。 私は、いかにソフトウェアがユーザに見えているのかに関心がある。 すなわち、コンテンツの制作、共有、再利用、ミックス、制作、管理、共有、コミュニケートを提供する機能、これらの機能を提示していたインターフェース、これらの機能とインターフェース・デザインによってエンコードされたユーザに関する想定とモデル、ユーザのニーズ、社会だ。

アプリケーションによって提供されるこれらの機能は、アプリケーションのコマンドやツールに組み込まれている。 それらは、与えられたアプリでできることや、どのようにできるかを定義している。 それは明快だ。 しかし、混乱を避けるためインターフェースに関するある重要な点を主張する必要がある。 多くの人が現代のコンピュータ機器がグラフィカル・ユーザ・インターフェース(GUI)を使っているといまだに考えている。 現実には、1980年代はじめのオリジナルのGUI(アイコン、フォルダ、メニュー)は、ほかのメディアや感覚(サウンド、アニメーション、モバイル端末のユーザ・インタラクションと連動する振動フィードバック、音声入力、マルチ・タッチ・ジェスチャー・インターフェースなど)をとりこんで徐々に拡張した。 このことが、(業界で使われている)用語「メディア・インターフェース」が、現在インターフェースがどのように動作しているのかをより正確に説明している理由である。 この用語は、WindowsやMac OSのようなオペレーティング・システム、AndroidやiOSのようなモバイルOSのインターレースを正確に説明する。 それは、ユーザとコミュニケートするためにグラフィックに加えてあらゆるタイプのメディアを使っている、ゲーム・コンソールや携帯電話、さらにインタラクティブな店舗1、ミュージアムのインスタレーションのインターフェースにさえ適用できる2

前述のカルチュラル・ソフトウェアのタイプのリストを整理するのに使った「メディア/コンテンツ」対「データ/情報/知識」のカテゴリーについてもコメントが必要だ。 本書で使うその他多くのカテゴリーと同様に、これらは、まったく別々の箱というよりも、同じ連続する次元の二つの部分を示しているものとして考えている。 長編映画は第一のカテゴリーの好例であり、Excelのスプレッドシートは第二のカテゴリーを代表している。 しかし、こうした明瞭に分けられる例のあいだには、どちらにも属する多くのケースが存在する。 例えば、スプレッドシートのデータからインフォメーション・ビジュアライゼーションを作ると、このビジュアライゼーションは両方のカテゴリーに均等にあてはまる。 それは「データ」でもあり、洞察や「知識」をもたらす新しいデータ表現方法でもある。 それは、写真や絵画と同じように私たちの感覚に訴えるビジュアル・メディアの一作品にもなるのだ。

我々の社会が相対するこの二つの用語を置いている理由は、メディアと情報産業の歴史に関係している。 現代「メディア」は、18世紀後半と20世紀前半にかけて発展した技術と社会制度の産物である。 大規模な新聞、雑誌や書籍の出版、写真、映画、ラジオ、テレビジョン、レコード産業。 「データ」は、社会統計、経済、ビジネス・マネージメント、金融市場といったそれぞれの歴史をもった数々の専門分野から生まれている。 21世紀のほんのはじめに、データは専門領域を去り、ひろく社会の関心事となっている。 データは、自らのデータ・ポータル(例えば、data.govdata.gov.uk)を作る政府や都市とともに、「セクシー」で「流行」になっている。 データのビジュアライゼーションは、MOMAのような著名な美術館の展覧会(「Design and Elastic Mind」展、2008)へ進出している。 コンピュータ「おたく(ナード)」は、ハリウッド映画のヒーローになっている(『ソーシャル・ネットワーク』)2010)。 ■そしてGoogleアナリティクス、Facebook、YouTube、Flickrはいずれも、ユーザのWebサイトやメディア共有アカウントの詳細なデータを提供する。 もちろん、メディア・ソフトウェアのオペレーションは (研究、商用、芸術的目的のためのどんなメディアのコンピュータ処理も) コンピュータがデータとしてのメディアを代表しているから (ピクセルのような離散的要素、EPSのようなベクター・ファイルのベクター・グラフィックスを定義している数式) (本書で議論される)重要なメディア・テクノロジーとしてのメディア・ソフトウェアの発展とその採用は、徐々に訪れているメディアとデータの協調に対する重要な貢献者である。

ソフトウェアは、その他多くのテクノロジーとタイプを含む。 コンピュータとコンピュータ端末は、メディアの制作と再生に加えて、その他多くの機能も果たす。 そしてもちろん、ソフトウェアは実行するハードウェアを必要とする。 ネットワークはデジタル文化の不可欠な要素でもある。 したがって、メディアの制作、編集、再生のためのソフトウェア・アプリケーションに私が着目することで、ある種の人をいらだたせるだろう。 皆がPhotoshop、Flash、Mayaなどメディア制作のソフトウェアを使ってはいない。 相当な数の人が、自身のコンピュータ・プログラムやスクリプトを書いたり、他人が書いたプログラムを変更して、メディアと関わっている。 こうした人は、Webサイト、Webアプリケーションなどインタラクティヴ・アプリケーションのコーディングを行うプログラマーであり、ソフトウェア・アーティストであり、新しいアルゴリズムを開発するコンピュータ科学者であり、Photoshopや高度なメディア・プログラミング言語を使う学生などである。 彼らは皆、私に、どうしてプログラミングの活動の対極にある、消費者向け製品の形式をとったソフトウェア(すなわちアプリケーション)を選んだのかと質問するかもしれない。 そして、ソフトウェア開発の段階的民主化や、プログラムやスクリプトを書くことができる専門家や学生の文化の段階的増大についても訊ねるだろう。 アプリケーションを説明するよりも、プログラミングの振興のに力を注ぐべきではないのかと。

私の選択の理由は、どんなにそれらが進展しているとしても(多くの文化批評家がするような)特異な例を強調するより、主流の文化的実践を理解することに取り組むからだ。 正確な数字をもっていないが、メディアで働きプログラムもできる人々の数は、大勢のアプリケーション・ユーザーに比べれば少数である。 今日の典型的なプロのグラフィック・デザイナー、映像編集者、製品デザイナー、建築家、音楽家は、そしてYouTubeにビデオを投稿したりブログに写真やビデオをのせる人も間違いなく、ソフトウェア・コードを書くことも読むこともできない(HTMLのマークアップを読んだり変更したりできることや、すでにパッケージ化されたJavaScriptのコードの行をコピーできることとプログラミングとは全く異なる)。 したがって、概念的にも実際的にもソフトウェアがメディアをいかに再形成したのかを理解したければ、プロと非プロの双方の大部分の人々が日々使っているツールをくわしく調べていく必要がある。 すなわち、アプリケーション・ソフトウェア、Webベースのソフトウェア、そしてもちろんモバイル・アプリである(本書では、第二と第三のカテゴリーを犠牲にして、第一のカテゴリーを強調する。 なぜなら現時点では、プロのメディア制作にはまだ、相当のRAMと巨大なハードディスクを搭載するラップトップやデスクトップで動作するアプリケーションを必要としているからだ。 それに、バージョンごとに徐々に変化するPhotoshopやFinal Cutのようなデスクトップ・アプリケーションとは違い、Webベースやモバイルのアプリは現在猛烈な勢いで進展しつづけているからだ )。

どのような定義であれ、歓迎する人もいれば、そうでない人もいる。 したがって、「カルチュラル・ソフトウェア」(「メディア・ソフトウェア」はこの一部分である)という用語を定義した方法に対して起こりうる反論についても述べておきたい。 「文化(カルチャー)」という用語は、コンピュータ上のファイルや実行可能なソフトウェア・プログラムやスクリプトとして存在する個別のメディアやデザイン「オブジェクト」にまとめられるものではない。 文化は、記号、意味、価値、言語、慣習、信仰、主義、儀式、宗教、衣装、振る舞いのコード、その他多くの物質的、非物質的な要素や次元を含んでいる。 したがって、文化人類学者、言語学者、社会学者、そして多くの人文学者は、これらすべての次元を、メディア・ファイルの制作や再生のツール群へと無批判にまとめているようにみえるものを歓迎しないだろう。

今日「文化」と言っているものは、アプリケーション・ソフトウェアの特定部分とメディア・オブジェクトとそれらによって作られうる経験、と等しく見なせるのか。 もちろんそうではない。 しかしながら、私が言っていることは、そして本書で詳述しようとしていることは、20世紀の終わりに人間が、あらゆるものに「文化」として見なされるあたらしい要素を加えたことだ。 その要素は広義ではソフトウェアであり、狭義ではコンテンツを制作、アクセスするためのアプリケーション・ソフトウェアである。

私は、あえて新しい要素のメタファーを使っている。 つまり、「カルチュラル・ソフトウェア」はたんなる新しいオブジェクトではない。 大きさや重要性は問題ではない。 それは「文化」と呼んでいる空間に投げ込まれたのだ。 したがって、ソフトウェアを、音楽、ビジュアル・デザイン、構造空間、ドレス・コード、言語、食料、クラブ・カルチャー、企業規範、話法と身体術などの用語群に追加できるたんなる別の用語として考察するのは不正確になるだろう。 そして、私たちは確かに「ソフトウェアの文化」−−プログラミングの実際、プログラマーとソフトウェア企業の価値とイデオロギー、シリコンバレーとバンガロールの文化など−−を研究できるが、それだけしかやらなければ、ソフトウェアの本当の重要性を見落としてしまうだろう。 アルファベット、数学、印刷機、燃焼機関、電気、集積回路のように、ソフトウェアはあらゆるものを適用するように再調整し再形成する−−または少なくとも、それをおこなうポテンシャルを有している。 空間中の全部の点に新しい座標を追加する新しい次元を追加するように、文化にソフトウェアを「追加」することは、文化が作られるあらゆるもののアイデンティティを変化させる(この点において、ソフトウェアはマクルーハンが意味したものの完璧な事例である。彼は次のように書いた。「いかなる媒体やテクノロジーのメッセージも、人間の世界に導入されるスケール、ペース、パターンの変化である3」)。

まとめると、現代社会はソフトウェア社会として特徴づけることができ、文化は当然ながらソフトウェア文化と呼ぶことができる。 なぜなら今日のソフトウェアは、「文化」を彩っている物質的要素と多くの非物質的体系の両方を形作っている中心的役割を演じているからだ。


序章


  1. NokiaとDieselのためのNanikaのプロジェクトを見よ。 http://www.nanikawa.com/; Audi City in London, opened 2012.

  2. オスロのノーベル平和センターにあるインタラクティヴ・インスタレーションを見よ。Nobel Chamber, Nobel Field, and Nobel Electronic Wall Papers, http://www.nobelpeacecenter.org/en/exhibitions/peace-prize-laureates/

  3. Marshall McLuhan, Understanding Media: The Extensions of Man (New York: McGraw Hill, 1964), quoted in New Media Reader, Noah Wardrip-Fruin and Nick Montfort (eds) (The MIT Press, 2003), p. 203.